TEKI雑記

古民家暮らしのDIYな日々を綴ります

新築DIYと営繕DIYの大きな違い

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こちらは、今年度のDIY予定物件です。
古材・廃材を利用したセルフビルド物件で、築約15年目の物件です。
セルフビルドした最初の家主から2度家主が変わり、昨秋から空き家になっていました。
この物件も周りの空家のように朽ちてしまうのかと思うと、あまりにも悲し過ぎるのでアトリエとして活用させてもらうことになりました。


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中の現況はこんな感じです。

今回の作業は家のぐるりを歩いて現況確認し、部屋を掃き掃除して終わりました。1時間くらいしかその場にいないのですが、どっと疲れました。
実はこの特有の疲れこそが、新築DIYにはない営繕DIYの大きな特徴なのです。タイトルではわかりにくかったですが、ここでいう営繕DIYとは、他人が作った建築物を自分でリフォームやリノベーションする場合をいいます。
なので、過去に自分がつくったものを営繕する場合は別です。自分がつくったものならば、そこには過去の自分しか存在しませんから、疲れ度レベルも想定の範囲でしょう。
しかし、他人がつくったものなら、そこには必ず他人がいます。そして関わった他人が多ければ、また関わった期間が長ければ非常に強く残ります。つくったものが、部屋という仕切られた空間なら尚更です。

営繕DIY時の異様な疲れ現象は、古民家再生時も半端ではありませんでした。実体験から、異様な疲れ現象は私とその空間の反発現象であり、要するに霊的干渉であると私は感じています。
この点があまりにも新築DIYした小屋作りとは違い過ぎて、私は新築DIYと営繕DIYは全く別物だと思えるのです。
古民家物件の中には、なんとDIY挫折物件なるものがあると聞いたことがあるのですが、私は挫折した方の技術レベルの問題よりも霊的干渉によって追い出されたのではないかと思いました。

田舎暮らしがブームなのかトレンドなのかは知りませんが、古民家をキラキラと美化した宣伝広告に惑わされていては、つい見落としてしまいがちな重要なことだと思います。
実体の家主がいなくなっても、霊的家主はまだいるかもしれないのです。

霊的家主による霊的干渉は、対話によってすり合わせしていくしかないと私は思います。
家主が自殺して霊的家主となっている場合、交渉は難しくはなってきますが、平身低頭お願いして見ることだと思います。
私なりに古民家再生時に気をつけていたことは、次のようなことです。

・家に上がる時、必ず「お邪魔します」と言う。(契約上、事実上、自分が家主になっていても、まだ人様の家に上がっていることを意識して)
・仏間に歴代家主の写真がある時は、家に上がった時、帰る時に必ず挨拶をする。作業予定と結果の報告をする。
・神棚に神様を祀っていれば、家に上がった時、帰る時に礼をする。
DIYが終了したら、必要に応じて部屋に盛り塩をする。

お清めに塩を用いるのは周知の通りですが、霊といっても善霊悪霊様々です。
霊的家主と対話しているのに、端から塩で浄化しようとするのは失礼だと私は思います。なので、最後にどうしてもきついと感じたら、部屋の四隅と中心に盛り塩をしてから引っ越そうと考えていました。
しかし実際はかなり空間浄化が進んだと感じましたので、部屋に盛り塩はせず、新調した神棚に塩をお供えしました。

さて、私がどこまで霊感があるのかはわかりませんが、現在この家に暮らしていて嫌な霊感はありません。(感じていません)
古民家再生時に霊的家主様と対話し、きっちりと親族様に送ることができたのかなと思います。今はこの集落を離れた長男さん(現大家・地主様)と一緒に仏壇を運べたことが大きかったのかなと思います。

科学体系の細分化で文明力があまりにも巨大に発達したせいで、物事(特に物事の結果に至るまでのプロセス)が人から離れた結果、霊云々の話は宗教的や非科学的に見られたりするかもしれません。 
しかし、生物学上私たち人は「霊長類」であるということは、科学的にもはっきりと霊を認めているということです。
私にとって空き家営繕DIYは、人は思念が桁外れに強い「霊長類」の最たる存在であるという当たり前のことを再認識させてくれるものです。
「霊長」とは、尊く不可思議な力(霊妙)を持つすぐれたものという意で、要するに人は誰でも少なからず霊感が備わっているということだと思います。研ぎ澄ませば、森羅万象すべてのものと対話することが可能でしょう。理屈では(笑)
社寺がパワースポットになるのは、神と人の対話があるからだと思います。文明技術力一辺倒の暴走(環境破壊)を止めるのは、一人一人の霊的覚醒であったりするのかなと思います。
霊的覚醒とはいっても、怪しげな訓練や修行や己を指導者だと言っている者に大金を払うことなど、私は毛頭必要ないと思います。 
野生動物は指導者がいなくても立派に生を全うしているように、人も当たり前に自然の声を聴いて共生すればよいのだと思います。
映画「アバター」のように髪?を繋げて対話することができれば、簡単明瞭なのですがね。