TEKI雑記

古民家暮らしのDIYな日々を綴ります

開かれた農場からの~

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花瓶の梅の花を見てわかるように、写真は先月のです。
春になりDIYモチベーションが上がってきましたので、昨年作った「木組テーブル」の天板を作り替えました。
材は1寸(30ミリ)杉フローリングです。

さて今春、私の中である事に対してず~と出なかった答えのようなもの(私にとってはベターな)が、ポンと出てきました。
そのある事というのは、自分にとっての「開かれた農的空間」のこれからです。


そもそも「開かれた農的空間」という言葉に、一体どういう人がどういう理由で反応するのか興味深いところですね。
私なりの解釈、認識や主観もありますが、説明したいと思います。
さて、「農空間」というのは、歴史変遷上凄まじい勢いで「工業化」しています。モノカルチャー農業は外部の人間を入れない正当な理屈まで作り上げ、法整備をしてしまいました。「関係者以外立入禁止」看板が農場の門によくありますが(特に畜産は義務付け)、それです。

そんな近代工業化に反発しての、独自の農的空間の設計の中に環境保全型農業があるわけですが、端から「開かれた農的空間」というわけにはいきませんでした。
社会の大きな流れに抗うという戦いは、コミューン形成とガラパゴス化を促し、結果的に閉ざされた空間をつくってしまいました。
もちろん「開かれた農的空間」というのは、当初の大義にはなかったでしょう。食べ物に関しての、「安心・安全を!」という当初の最大の目的は突き詰めていくことができました。しかし、世に環境保全型農産物が一商品として出回るようになると、ある意味面倒くさい提携型の購入は盛り上がらなくなりました。
資本主義の怖さの一つがコレです。
消費者は自分の気に入る商品を買い消費する。ただそれだけで良い。より早く、消費してくれればもっと良い。より速く動いて、消費してくれればもっと良い。寝る間も惜しんで消費してくれればもっと良い。もう24時間消費しろ!それが社会発展、経済発展やー!
結果、生協も個人宅配をやるようになりましたー。

消費者がスピーディーに買い物するということだけを求める資本主義ですが、消費者が買い物をするまでのプロセス、道草が実は人間として大切なことなのです。豊かなゆとりのある社会を築くのに必須だと思うのです。
生協の共同購入の場所に、おばちゃま達が集まって世間話してるのが良いのです。この現代の井戸端会議が良いんです。お店の店主と世間話も交えながら買い物するのが良いんです。

そういう意味で、資本主義は人間の人格形成を阻害し、自己も他者も物事も見えない盲目な人間を形成してしまう。コミュニケーション能力が著しく低い(引き出しが極めて少ない)人間を作り出してしまう。

時代の変遷、世代交代によって、安心・安全の農産物供給という目的は薄れ(経営上零にはできないでしょう)、人間性を取り戻すきっかけの場というのが、ビジネス路線一辺倒ではない農的空間に求められているのかなと思っています。
「開かれた農的空間」というのはこれからのキーワードになっていくのかなとは思いますが、歴史というのを振り返れば新しさは何もないのです。(そもそも新しさは全くいらない。古いものに飽きてしまうのは人間だけ。自然界を見よ!リスが木の実に飽きた!肉を食わせろ!とはならないし、鳥や虫が、この曲は飽きた!新曲を弾かせろ!ともならない。人だけが無駄なことをする唯一の動物)前々回紹介しました、ふみき氏がいう「縁側ないし庭的空間」というのが個々の暮らしの中で今もあれば、「開かれた農的空間」をコミュニティや個人がつくる意義はないのです。
しかし現実には諸々の事情で、「開かれた農的空間」は社会的意義があると思います。

さて、私が「開かれた農的空間」のこれからを考えたとき、私のお遊び空間を開放し人をたくさん受け入れるより、個々が個々の農的空間を暮らしの中に取り戻すことをすすめたいです。
縁側と庭がある古民家に住む。畑をどこかでやる。山林物件を買って開拓するなど、できる範囲で何でもいいのです。
研修生とか居候を受け入れるという現場に私がこれまでに関わってきて感じたのは、大半がアブクということです。何故か?というのは愚問です。
「開かれた農的空間」にどんな社会的意義が認められても、現場は容易なことではないということです。
人が多ければ仕事もたくさんこなせる一方で、問題も多発化複雑化するのです。ルール作りは緩すぎると、問題発生の種になってしまいますし、厳格にし過ぎると暮らしにくくなります。
研修生とか居候を受け入れる「開かれた農的空間」は、私の中では行き詰っていたわけです。
ならば、どういう形なら自分はしっくりくるのか…とここ数年考えていましたところ、ポン!と答えが出てきました。

それは…

「開かれた個人」です!!

私の農的空間を開くのではなく、私個人を開くのです。
そして「開かれた個人」は、丸一日が限界です。要するに、朝出会って夕方にはバイバイするということです。

どんな物事にも段階があるように、今日はじめましてして共同生活って無理があると思うのです。共に暮らすと良いこともあるけど、その人の素性を知らないわけにはいかないですよね。そして危機管理意識が高くなればなるほど、相手に対して構えてしまいます。その人の情報を知れば知るほど、その人を冷静に見れなくなるということもあります。

しかし、今日会って今日帰る相手ならば、何の構えも偏見もなくその人と接することができます。
譬、その人が殺人犯であれ、危険ドラッグ服用者であれ、知らないでいられるのです。
純粋にあなたと今ここで出会えたことに集中でき、喜べるのかなと思ったのです。