TEKI雑記

古民家暮らしのDIYな日々を綴ります

貧困問題から自給自足を考える

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突然ですが、人の身分とはどのようにして決まるのでしょうか?

人を自然界の一動物として再考してみますと、人は基本的に単独で生活するのではなく、群れを成して生活する動物だと思います。群れという集団生活の中では、自分に適した仕事を周りの人に批評されながら見つけることで、自然に役割分担ができていたのだと思います。
例えば指導者的な人も生まれたときから指導者ではなく、周りに評価されながらそうなっていったのだと思います。個は全体のために。全体は個のために。自給自足社会にあるのは役割分担であって、差別的な身分というのはなかったのだと私は思います。

かつて豊臣秀吉政権がベースを作り江戸幕府が確立した、士農工商えた非人という職業(身分)世襲は、全くのナンセンスなことでしょう。

さて、徳川慶喜大政奉還して148年、現代日本社会は平等でしょうか?

現代日本社会は曲りなりの自由社会ではありますが、決して平等社会ではないでしょう。
理由は簡単です。アンフェアな競争社会だからです。

真の平等社会ならば、その人の能力に適した仕事を見つけ、その人の存在価値を大事にするはずです。
しかし、現代日本社会の言い分はこうです。
あなたの生活が困窮するのは、あなたの自助努力がたりないからです。

恐ろしい言い訳がまかり通る世の中になったと思いませんか?
将棋でたとえるなら、歩兵を馬鹿にしているのと同じです。

イノベーションして作業を誰でもできるように単純化して、労働者のプライドをなくした上での巧妙な低賃金。そんな精神的肉体的物質的金銭的窮乏生活を自給自足で「勝ち組、負け組」という土俵から降りましょう!というのが今回の本題です。
もちろんどんな生活をしようが、他人の評価というものはつきものです。私は自分を負け組だとは思ってはいませんが、(勝ち負けリングに立った覚えはない)それでも、人からあなたは負け組だと言われるならば、私はこう答えるでしょう。
はい!その通りです!私はダントツのぶっちぎりの負け組です!(これで満足ですか?(笑))
自給自足的生活をしてもある意味貧困は変わらない(何をもって貧困というかの問題)ですが、このように笑いながら自虐的に言える精神的余裕が得られたということです。

ここで自給自足をはじめたいのだが、あと一歩進めないという方のために、自給自足の大先輩(写真の本の著者・中島正氏です。大正9年生まれの翁ですが、なんとまだ現役でいらっしゃいます\(◎o◎)/!)の言葉を紹介します。

~自給自足農業といっても、金がいらないのは食うことだけで、その他にどうしても金のかかることがる。金儲けしようとすれば、収奪に引っかかることはよくわかるが、それでも金を儲けなければ生活が成り立たないではないか。
この種の反発には「仙人となりて山へ入るべし」と答えるより仕方ないが、ここに参考までに「どうしても金のかかる」ことへの使途が何を意味しているのかさぐってみよう。

教育費—搾取と破壊の勉強への投資に他ならず
税金—国家権力の培養と、強制過剰サービスのもとでに他ならず
娯楽費—白痴化と妄動の基に他ならず
交際費—虚礼のカタマリの代価に他ならず(贈答するなら米や野菜や卵で間に合わせてはどうか)
医療費—反自然の生活の代償に他ならない

だから金は、自然と入ってくるものは敢えて拒むことはないにしても、金を儲けるために心身をすり減らして焦るほどのことはないのである。~

こんな感じで中島翁はズバズバとストレートに言ってくれますので、痛快ですね。
暮らしのカテゴリーはたくさんあるので、カテゴリーごとにどのラインに自分はもっていきたいのかということですが、中島翁は質問が多い主力5項目を挙げてくれたのでしょうか。
中でも「教育」に切り込んでいるのが、さすがです。
競争社会で勝つために、お母さんもパートで稼いで子どもを塾に通わせ、大学にいかせる…そして一流上場企業に入り、出世を目指す…
自由競争社会を肯定する人は、努力して勉強し、高学歴を得たなら幸せになれるという明快なルールを言いたいのでしょう。しかし、親の収入によって教育が変わる時点でアンフェアです。しかも、競争社会が激化している今は、高学歴だけでは安定保障にはなりません。



(cf.森永卓郎氏に言わせれば、競争社会が強くなればなるほど「コネ」の重みが増す)

大学はかつて支配者層(エリート)の教育でしたが、その後ホワイトカラーの育成を経て、大学全入時代の今、大卒という価値は薄くなっているのでしょう。

中島翁は教育・学校についてこう述べています。
~教育なんていうものは、基礎学力、せめて大自然の摂理を一応理解できる程度の学力さえ身につければよいのである。(大自然の摂理を徹底理解することは、大学が逆立ちしたってとうてい及ぶところではない)だからせいぜい中学校まで学べば、あとは先達について教えを乞うことが可能となろう。中学校で基礎学力が身につかないときは、やむを得ず高校まで—ゆえに高校はアタマの悪い連中をかき集めて再教育する所としたい。そのとき高校進学は、誇りではなくてむしろ恥となるかもしれないのである。~

さすが、中島翁!意識が時代の先を行き過ぎていますm(__)m
もう最後も、中島翁の言葉でしめてもらいましょう!

大自然に依存する以外は、農政にも農協にも商社にも金融にも、その他あらゆるものに依存せず、自給自足、自立独歩、朝に耕し、また夕に耕す。春に種を蒔き、夏に育て、秋に穫り入れる。十年一日。去年もそうであった、今年もそうである、来年もそうであろう。かくして農業は大自然と共に在り、大自然の循環と共に行われる。大自然に順応し、大自然に育まれ、大自然の恵みに生きる。大自然の与うるものを、大自然の掟に従い、大自然の命ずるままに食う。
「種を制する者は世界を制す」などと嘯いてみたところで、大自然には通用すまい。まさかあなた方は地上すべての野草や果樹を、枯葉作戦でもって殲滅した上で、「種を制する者は—」と宣言するつもりではないでしょうナ。
そこにハコベがあり、イタドリがあり、蕗があり、筍があり、ワラビがあり、タンポポがあり、山芋があり、栗や栃や椎の実があるかぎり、たとい「種を制されても」些かの痛痒も感じないのである。

自給自足。自然循環型農業を確立せよ。自然は万人に平等である。どうして生きられないことがあり得ようか。どうして困った問題が起こり得ようか。そこには「差別」はない。そういう問題は人為的社会構造の中にのみ存するものである。自分の生きる分を自分で耕して得るのに、どうして人に認められたり、助けられたり、情を受けたりする必要があろうか。断固として依存を一蹴しよう。もし倒れても、情けを乞うて栄ゆるよりはむしろ本望とすべきである。~